想像してみてください。

 

あなたは海外に行って、各国の人と仲良くなりました。やがて一緒に遊びに行くようになり、時にはご飯を一緒に食べたりするようになって、 その席であなたはこう尋ねられます。

 

 

「日本ってどんな国?」

 

 

「どんな国?」って質問自体が曖昧なので質問力としてはアレですが、でも、まあこんな感じで訊かれるでしょう。

 

 

普通なら変化に富んだ四季について説明すると思います。また食べ物、家電や自動車といった産業技術、またはメイドインジャパンの品質の高さを話すかもしれません。

(僕も実際、海外に住むようになって痛感したことですが、日本製品のクオリティってめちゃめちゃ高いです。)

 

それから、日本人は礼儀正しく勤勉で、東京の通勤ラッシュの時間帯には、そうした勤勉なサラリーマンと勤勉な駅員との押し合いへし合いもあったりして、うんたらかんたら・・・。

いろいろ語れることはあると思いますが、これらってある意味日本の表面的な部分でしかなかたりします。日本という国の核心部分ではないということですね。

 

 

で、次第にお酒もまわり、もっと突っ込んだところまで話が進展した時に、日本の社会構造まで具体的に語れますか?

 

日本と日本人を形作る土台の部分。 

 

今日は、その少し突っ込んだところのお話をしたいと思います。

異常なまでにおとなしい日本人

日本人のおとなしさと真面目さは世界的にもけっこう有名です。

 

東日本大震災の混乱の最中でも、大きな暴動や略奪が起こらない日本人の規律正しさは、当時、海外のメディアでもちょいちょい話題になったようです。

ライフラインが寸断されて、命の危険にさらされた時、海外だと真っ先に略奪なんかが起きるんですけど、そもそも日本人には自分の生存のためにモノを奪うという発想自体ありません。

 

こういった日本人のモラル高い国民性はどこから来てるんでしょうか?

儒教的村社会日本

日本という国の骨格を一言で表現するなら、『儒教的村社会』です。

 

これだけじゃ何のことかわからないので分解再構築してみましょう。

 

まず、儒教的ムラ社会って聞いて、

「へ?儒教??仏教国じゃないの!?」

って思ったかもしれませんが、日本人が信仰する仏教というのは、そもそもオリジナルな仏教ではありません。

 

仏教の衣をまとった儒教思想です。

日本の仏教

まず最初に仏教はインド・ネパールに広まって、その後、ふた手に分かれて伝播しました。

一つが東南アジア・南アジア方面の上座部仏教。こちらは釈迦が語った原始仏教に近い形で残っています。

 

もう一つが中国大陸を経由して東アジアに広まっった大乗仏教。日本の仏教はこの大乗仏教です。

大乗仏教は中国で儒教思想の影響を強く受けて、オリジナルの仏教とは大きくかけ離れたものになりました。

儒教とは何ぞや?

儒教は孔子を開祖として中国で生まれました。中国という国は思いっきり儒教国家です。『

 

儒教の特徴として、

『君子が徳を以って統治する』

というのがあります。

 

 

『儒教』が生まれた国、中国では『君子』が共産党員またはその幹部で、統治される者が人民という構図になっています。

 

つまり、儒教思想というのは支配者に都合のいい論理で構成されていて、主従関係が生まれやすくなっているんです。

そこでは目上の者が無条件に偉く、この考え方は日本でも『お上には逆らうな』って言葉にも象徴されています。

 

日本で体制に対する大規模な講義デモや災害による大きな暴動が起こりにくいのは、お上の前では大人しくするという考えが心の奥底に存在しているから、というのも一つの大きな理由として挙げられます。

 

こうして見てみると、日本人は大人しいというよりはむしろ、儒教思想が支配する社会システムによって従順に飼いならされているように見えなくもないです。

 

ちなみに、釈迦はバラモン教から生まれたカーストというピラミッド型の上下制度を否定しているので、儒教の先祖崇拝の考えとは相反するものです。

それにも関わらず、日本人が仏教行事としてお盆に先祖を迎えるのは、こうした儒教的背景から来ています。

日本はお天道様による相互監視社会

もう一つの日本社会の知られざる特徴、それは日本が監視社会だということです。

 

ほとんどの人は考えたことすらなかったと思いますが、紛れもなく監視社会です。厳密には、『自分たちは監視されている』という感覚を無意識下で持っている社会、と言った方が正確かもしれません。

 

 

同じ東アジアの中でも日本人が特におとなしくて規律正しい理由がここにあります。

ムラ社会の形成

日本は国土の大部分が山と川で構成されていて、昔は地域ごとに集落を作って生活を営んでいました。

 

地理的な要因から集落間の往来も少なく、方言が生まれやすい条件が揃っていました。そんな背景もあって日本という国は、人種的には均質性が高いにも関わらず、方言の種類が多岐に渡ります。

(ちなみに、僕の出身は福岡ですが、同じ福岡県内でも福岡市と北九州市では全く違う方言を話します。)

 

 

集落内で共通言語として方言を共有することは、それぞれが共通の価値観を共有することでもあります。

 

集落内(コミュニティ)にいる限りは、共通の価値観を持った者同士が助け合いながら安心して生きていけるという利点があるわけですが、逆に、同じような価値観を共有できないと、『出る杭』として打たれ、下手すれば『村八分』になって生きていけないようになります。

『恥の文化』による抑止力

西洋社会では神の名の下に自分の行動が『罪』に当たらないかどうか、つまり『罪の文化』が個々人の行動基準の根底にあります。

 

それに対して、文化人類学者のルース・ベネディクトは著書『菊と刀』で、「日本人は世間様に恥じないかどうか、つまり、『恥の文化』を行動基準としていてる」と指摘しています。

 

コミュニティ内で村八分にならないため、日本人は昔から他人にどう見られるかを気にして自らの行動を抑制してきました。「お天道様が見ている」という言葉にも表現されているように、いつどこで自分の行動が他人の目に止まるかわからないわけです。

 

そうやって集団から外れないように行動することで、『みんな同じであること』を美徳とする文化が育ってきました。

ちょっと年配の世代では、「世間に恥じないように」と言われて育った人も多いかと思います。

 

実際、監視されているわけではないのに、日本人の心の奥底に根を張っている「誰かに見られているかも」という感覚が抑止力となって日本の安全神話は作られてきました。

日本という国には『お天道様的監視システム』なるバイオパワーが働いているのです。

自己主張がしずらい言語構造

例えば、アメリカでは小さい子供のうちから自己主張の重要性を教えられます。

 

日本人が海外旅行なんかに行くと、欧米人の自己主張の強さが原因で怒っているように見えることもあって、しどろもどろしちゃった経験がある方もいると思います。

 

 

そもそも、欧米文化圏の言葉は、『自己主張してナンボ』という言語構造を持っています。

 

わかりやすいように英語を例として見てみましょう。

英語では一人称単数(私)は『I』です。基本的に、主語を先頭に持ってきて文を組み立てます。

つまり、「私は~」という風に、最初から自分を打ち出すことを主眼とした構造をしているんです。

 

 

これに対して、日本語というのは自己主張がしづらい言語構造をしています。

一人称単数は『私』『わたくし』『僕』『オレ』『自分』『ウチ』『わし』『オイラ』『わて』など何通りもあって、状況によって使い分ける必要があります。

 

 

親に向かって「自分は~」なんて話し方はしないし、上司の前で「オレは~」もありえないですよね?

つまり、自分を取り巻く状況というものが先にあって、その上で自分がどう振る舞うかを判断しているということです。

 

日本人が周囲や他人を気にして、自己主張が異常なくらい控えめな理由がわかりますね。

波待ち中に垣間見る日本人の気質

海外では見ず知らずの他人であろうと、目が合えばニコッと微笑んだりしますが、これ日本人かなり苦手ですね。

 

日本では相手に対するリスペクトを礼儀正しさで表現したりしますが、欧米文化圏ではフレンドリーであることが相手に対する敬意の表現でもあり、目があって微笑むことは相手に対して「敵ではありませんよ」という意思表示になります。

 

だから、目が合ったにも関わらず、おどおどしていたり目をそらしたりすると、

「こいつはヤベー奴だな!」

と思われる可能性が高いんですけど、そもそも日本人はフレンドリーに振る舞うことが苦手なんですよね。目立たないこと、そして波風立てないで生きていくことが染み付いてますから。

 

 

これはサーフカルチャーにも顕著に表れてて、例えば日本とオーストラリアだと海の中の雰囲気も全然違います。

 

オーストラリアでは波待ち中に初対面のサーファー同士で冗談を言い合ったり、知らない誰かが良い波に乗ったりすると「ヒュー!」と声を上げたりなんてことも珍しくありません。

 

これを日本でやっちゃうと、けっこうひんしゅくを買いそうですよね。

 

海の中でも、「騒ぐなよ!」という日本特有のピリッとした雰囲気が漂ってます。僕も海の中でやたらめったら騒ぐのは好きではありませんが、この電車の中さながらな空気感に息苦しさを感じなくもないですね。

 

 

僕には韓国人のサーファーの友人がいますが、韓国のサーフカルチャーは日本からの輸入なので、海の中ではやはりピリッとしていると言っていました。

日本人の精神性とは

日本人が本来的に持っていた精神性を一言で表すなら、それは『武士道』だと言えます。

とは言っても、『武士道』についての明確な定義があるわけではなく、一般的には『仏教』『儒教』『神道』が融合したものとされています。

 

こうやって字面にしてみると、『宗教』と『宗教』と『宗教』が合わさったものが『武士道』だということがわかりますね。

ということは、『武士道』というものも宗教、または信仰と捉えて差し支えなさそうです。

 

 

もう一度言いますが、

宗教・信仰 = 生き方・道徳心

です。

日本人に施された洗脳政策

敗戦後、GHQはメディアを駆使して日本人に大掛かりな洗脳政策を施しました。

これをWGIP(War Guilt Information Programと言います。

 

これによって日本人は自虐史観を植え付けられて戦前の価値観をほぼ全否定し、戦争による怒りの矛先を内側へ内側へと向けられて行きました。

 

世論はすっかり親米になって、そこに追い打ちをかけるように『3S政策』などによって武士道精神というのは解体させられました。

まとめ

以前、こんな記事を書きました。

 

日本人はおとなしい、自己主張が下手だなんてよく言われますけど、これはオリジナルな日本人の性質からは少しズレてるんじゃないかって気がしてます。

 

これは僕の推測ですが、黒船が浦賀にやってきた時、当時の武士たちは変わった風貌の彼らに驚きはしたものの、おどおどしたりはしなかったんじゃないかと思うんです。

というか、むしろ堂々と対峙してたんじゃないかと!

 

 

僕は物心ついた頃から高校まで剣道をしていましたが、剣道では一本を取った後、ガッツポーズをすると一本を取り消されます。相手に対する敬意を欠く行為だからです。

そこには勝ち負けを超えた、人と人とのやりとりがあり、まさに武士道の精神が息づいているようです。

(同じ日本古来の伝統武道である柔道は、オリンピック種目として採用されたことでスポーツ化してしまいました。勝ち負けが最優先のパラダイムを受け入れてしまったからです。)

 

 

武士道精神は、日本人が国際社会で活躍するためのキーになると考えてますが、そうは言っても、儒教的村社会で生まれた古来の武士道精神には封建的な側面もあって、そのまま国際社会に受け入れられるのかと言えば、ちょっと難しいように感じてます。

 

これだけ情報がオープンかつフラットに手に入るようになった僕らのような新しい世代は、日本人が本来持っていた武士道についての理解をそれぞれが深めつつ、新しい『Neo  Bushido』なるものを探求していくことで、対外的に見てもカッコイイ日本人の体現に繋がるんじゃないでしょうか。

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